R&B入門講座

アフロビート

アフロビートとは

アフロ・ビートとは、アフリカのナイジェリア出身で、ナイジェリアの英雄であるフェラ・クティ、及びそのバンドでドラムを叩いていたトニー・アレンが1970年代初頭に編み出した音楽の事です。アフリカの伝統的な音楽と、西欧音楽、つまりファンクやジャズ、ロックなどを融合させた独自のビートが特徴です。

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概要

ファンクやジャズの流れを汲むヨルバ/ナイジェリア起源のアフリカ音楽であり、アフリカのパーカッションを用いたブラスバンド編成となっているのが特徴です。アフロ・ファンクと呼ばれることもあります。アフリカの音楽にファンク・ジャズ・ソウルのエッセンスを加えた音楽で、アフリカのパーカッションを用いたプリミティブなビートと攻撃的なブラスサウンドが特徴です。もともとアフリカ生まれの音楽であるためか、アメリカにおいても黒人やヒスパニックといったマイノリティーがアフロビートのバンドメンバーには多いようです。

アフロビートの歴史

60年代後半にナイジェリア出身のミュージシャン、フェラ・クティが自らの音楽を「アフロ・ビート」と名付けたことが始まりだと言われています。彼は国内の政治・宗教やヨーロッパで味わった黒人差別などへの怒りのメッセージを、自ら率いるバンドの演奏に乗せて叫びました。次第に、彼はミュージシャンとしてだけではなく、下層階級のために戦う活動家としてカリスマ的な人気を得ていきます。アフリカから始まったこのムーブメントは、その政治性を帯びた歌詞と力強いサウンドが注目をあび、徐々にアメリカやヨーロッパ、日本にも浸透していきました。現在では、レベルミュージックとしてだけではなくダンスミュージックとしても評価されていて、クラブ用にミックスされたものも多数リリースされています。

アフロビートの背景

そこには大昔から音楽が持つ宗教儀式や舞踏的な要素、すなわちダンス・ミュージックとしての側面と、当時のナイジェリアの軍事政権や国家警察などに対する闘争の意志を内包したレベル(反抗)・ミュージックとしての側面がありました。その後、ワールド・ミュージックとしてアフロ・ビートは世界中に紹介され、またアフリカからの移民が多いヨーロッパやアメリカにも広まっていきました。アフロ・ハウスやレア・グルーヴ、ダンス・ジャズなどのクラブ・シーンの流れで、ダンス・ミュージックとしてアフロ・ビートをプレイするDJも増え、それに伴ってアフロ・ビートを演奏する新しいバンドも登場するようになっていきました。

アフロビートを代表するミュージシャン

アメリカであればアンティバラス、アコヤ・アフロビート・アンサンブルあたりが有名でしょう。フェラ・クティは死んでしまいましたが、息子であるフェミ・クティやシェウン・クティがその遺志を引き継いでいますし、トニー・アレンは今も元気に活動しています。最近ではデーモン・アルバーンやレッド・ホット・チリ・ペッパーズのブラーなどと結成した新ユニット、ロケット・ジュース&ザ・ムーンが話題となっています。西欧諸国に比べて日本ではまだマイノリティな存在のアフロ・ビートだったが、近年ではそうしたバンドも徐々に増えてきています。

フェラ・クティ(Fela Anikulapo Kuti,

アフリカン・ポップスは、キング・サニー・アデやユッスー・ン・ドゥール、サリフ・ケイタ、トマス・マプフーモ、パパ・ウェンバなど、数多くのミュージシャンたちの活躍で1980年代後半には、世界的に注目を集めるようになりました。それぞれの地域ごとに独自のスタイルをもつアフリカン・ポップスは、新しいファンク・ミュージックの発進地として重要な地域になったのです。しかし、そのアフリカン・ポップスの黄金時代から、さかのぼること20年、1970年代にアフリカから世界に向けて独自のファンク・サウンドを発信し始めた男がいました。その男、フェラ・アニクラポ・クティ(アニクラポとは「死をコントロールする者」という意味だという)の存在は、他のアフリカン・ポップスのミュージシャンたちとは、まったく一線を画す位置にあると言えるでしょう。彼は1960年代から、この世を去る1997年まで、その独自のスタイルで常に第一線で活躍を続けた「孤高の人」でした。

音楽最高!!!!!

略歴

フェラ・ランサム・クティは、1938年にナイジェリアの首都ラゴス北部に位置する街、アベオクタで生まれました。このアベオクタという街は、20世紀初頭にこの地がイギリスによって植民地化されようとしていた時、最後まで闘い続けたヨルバ人たちの拠点として、歴史的に有名な街です。その街に、誇り高きヨルバ人の一人として彼は生まれたのでした。フェラの父親は牧師で、母親は教師から政治運動家へと転身した進歩的な人物でした。しかし、そんな堅い家庭に育った彼は、多くの教職者の家庭がそうであるように、反抗的な少年時代を過ごし、16歳の頃から仲間を集めてバンド活動を始めていました。当時の音楽の流行は、ハイライフと呼ばれるジャズからの影響を大きく受けたポピュラー音楽で、1958年にロンドンの音楽大学に留学してからは、彼の興味はさらに本格的なジャズへと向かって行きました。しかし、帰国後は、1960年代にアフリカを訪れたジェームス・ブラウンのファンクに衝撃を受け、その要素を吸収しながら、自らのサウンドに積極的に取り入れて行きました。こうして、ジャズとハイライフ、ファンクが一体化した彼独自の複合的ファンク・サウンドが生み出されました。それに彼は「アフロ・ビート」と言う名をつけ、後にそれが彼のサウンドの代名詞となったのです。

黒人解放運動との関わり
1969年、彼はアメリカへバンドを引き連れてツアーに出かけ、そこでマルコムXらによる黒人解放運動の影響を強く受けて帰国します。そして、この後彼は、世界の黒人が連帯する事を目指し、その第一歩として、アフリカの統一を目標にかかげるようになり、そのための音楽活動をしていくようになります。
カラクタ共和国の設立
1970年代のナイジェリアは、油田マネーによる政治腐敗と貧富の差の拡大、都市部のゲットー化など、多くの問題を抱えていました。そんな状況の中、1974年にフェラは、ついに政府に反旗をひるがえし、「カラクタ共和国」というコミューンを設立します。しかし、そんな彼の国家内国家の設立が政府に認められるはずはなく、カラクタ共和国は警察と軍隊による襲撃を受け、彼は逮捕されてしまいます。
音楽による戦争の開始
しかし、本当の闘いはそれからでした。彼は刑務所からの出獄後、すぐにその獄中での出来事をもとに強烈なファンク・グルーブを持つ曲を作りあげ「アラグボン・クローズ」(1974発売)として発売します。(アラグボンは刑務所の名前)さらに、襲撃事件については「カラクタ・ショウ」(1976年)、強制的に排泄物検査をさせられたことについては「エクスペンシブ・シット」(1975年)、そして彼らを襲った軍隊を批判して「ゾンビー」(1976年)など、次々に政府を批判するアルバムを発表していったのです。なんと、ナイジェリア国内では、これらのアルバムがどれも大ヒットし、その凄さは国境を越えて海外にまで伝わって行きました。
長く果てしない闘い
その後も、カラクタ共和国は何度となく軍隊による襲撃や放火、強姦などの被害を受け続けますが、フェラはその都度新しいアルバムを発表し、果てしない闘いが続きました。ついに彼はナイジェリアの大統領を目指すようになり、それに対する弾圧はさらに強まって行きます。しかし、彼はけっしてその闘いから手を引きませんでした。これほどの「闘うミュージシャン」は、未だかつて存在しなかったでしょう。彼のそんな強靱な精神力が生みだしたリズムだからこそ、彼のアフリカン・ビートが生み出すグルーブは、多くの人々の腰を休むことなく動かし続けるのに違いないのです。
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